しばらく前から、暗くやや狭い部屋の片隅に敷かれた、いささか粗末な布団の中にこもっている。
しかし、一向に眠りにつくことはできない。
私が床に就くと同時に、壁を隔てた向こう側から途切れることなく耳障りな騒音が鳴り響いているからだ。
大音量で音楽が鳴り響いたかと思えば、
若い男女数名分の下品な笑い声が木霊し、
やっと笑いが収まったかと思えば今度は長電話でもしてるのか、
若い女の作り声が延々と聞こえ続けている。
不眠と怒りで頭が締め付けられるように痛む。こんなことが一体何日続いたことだろうか。
ほんの数時間でいい、ひと時の安眠が欲しいと切に願う。
そんな私のささやかな望みを嘲笑うように、隣部屋から響いてくる
不自然なまでに機嫌のいい作り声のボルテージはどんどん上がっていく。
…もう我慢できない。次の瞬間、私は勢いよく上体を起こし、
丁度手の届く位置にあった壁を思いっきり叩いて声を張り上げた。
「黙れッ‼うるっさいんだよ‼このバカ‼」
すると、これまでずっと続いていた騒音がいきなりやんだ。
隣部屋から生じた静寂はすぐに私のいる小部屋をも支配した。
…これでようやく眠りにつくことができる。
私は安堵して上体を寝かせる。
そして布団をかぶり直し、静かに目を閉じた。しかし、次の瞬間、
―バタンッッ‼―
私のいる部屋の入り口から凄まじい轟音が鳴り響き、部屋の天井は狂ったかのように光り出した。
状況を確認しようと再度起き上がろうとしたが、何かに強く押さえつけられたようで、
起き上がりきることができずに枕に後頭部を打ち付けた。
私を押さえつける何かに抵抗を試みる。
しかし、頬に鉄拳が飛んでくる形で反応が返ってきた。
数秒してようやく目の焦点があったので、私を押さえつけているものの正体を確かめた。
私を押さえつけていたものの正体は、先ほどまで隣部屋で騒音をまき散らしていた同い年の従妹であった。
「…な、何?」
そう従妹に尋ねたが、返答は鉄拳であった。
従妹はそのまま何発か私の顔を殴ったのち、私の寝間着の胸倉をつかみ私を凝視して言った。
「ライブ中だったんだけど。」
「らいぶ?」
一瞬何のことか理解できず、間抜けな声をあげてしまった。
それが従妹の気に障ったらしい。胸倉をつかまれたまま上体を前後に揺さぶられさらなる罵倒が始まった。
「アンタのバカ声のっちゃったんだけどぉ!フォロワーに聞かれたんだけどッ‼どう責任取ってくれんの…⁉」
状況を整理すると、先ほどまで従妹は長々とライブとやらをしていたらしい。
そして先ほど私が放った怒声と壁を叩いた音がライブで流れてしまいそれが気に入らない、といったところだろうか?
「責任っていわれても…。」
「これでフォロワー減っちゃったらアンタのせいだよ‼どーしてくれんの⁉」
従妹と違って携帯端末の類を与えられていない私にはフォロワーが何のことだかわからないしどうでもいい。
「…寝たいんだけど。」
面倒になってつい本音を漏らしてしまった。
「…なら一生寝てられるようにしたげるよ‼」
従妹は私の頭を掴み勢いよく壁に叩きつけた。
目の前が真っ暗になり、周辺の様子を把握できなくなる。
耳はどうにか聞こえるが、聞こえてくる言葉の意味を理解できない。
ただ、どうやら従妹は引き続き物凄い剣幕で私を罵倒しているらしい。
しばらくすると、2つほど聞こえてくる声の種類が増えた。
そして、増えた声のうちの一つが私のほうに近づき、何かが私に触れた。
視界はまだ若干ぼやけているが断端と周辺の様子が分かるようになってきた。
何度か瞬きをすると、目の前にいるのが同居している叔母であることが確認できた。
そして近くには叔父と憎々し気な表情で私を見る従妹がいた。
私の意識がはっきりしたことを理解した様子の叔母は安堵した様子で私に言った。
「…ああ、良かった。」
そして続けて言った。
「さあ、ユイカちゃんに謝りなさい。」
「えっ。」
ユイカが従妹のことを指す人名であることは理解できた。
しかし、その後に続いた命令口調は理解できなかった。
「えっ。じゃないの。あなたがユイカちゃんに迷惑かけたんでしょ?悪いことをしたらきちんと謝りなさい。」
「何で私が…。」
すると、今度は従妹のそばに立っていた叔父が口を開いた。
「確かにちょっと叩いたりしたのはユイカがいけないよ。でもそれは美晴ちゃんが叩かれるようなことをしたからじゃないのかな?」
叔父叔母夫婦は揃って従妹を擁護し、従妹はフンと鼻を鳴らしながら腰に手をあて偉そうにしている。
悪いのは私なのだろうか?
「でも…。」
「でもじゃないでしょ!早く謝りなさい!皆明日も朝早いのよ‼」
叔母は私に非難の声を上げ、叔父と従妹は私を責めるような目で見降ろしている。
そのまま数分が過ぎた。そして、
「…ごめんなさい。」
この状況が面倒になって折れてしまった。
叔父と叔母は満足した表情を浮かべ、部屋を去った。
「こんどユイカの邪魔したら、只じゃすまないから‼」
従妹はそう吐き捨てるように言って部屋を出た。
しばらく後、結局眠ることはできずに布団を畳み部屋を出た。
そして、叔父叔母夫婦から言いつけられたとおりに掃除、洗濯、炊事と家事をこなしていく。
一通り家事をこなして自分の部屋に戻ると、制服を着た従妹が待ち構えていた。
「みてみて‼高校の制服できたの‼」
従妹は嬉しそうに春から通う有名私立高校の制服を私に見せびらかす。
「かわいいでしょ…?」
従妹は褒めろと言わんばかりの表情で私を見る。
「そうだね…。」
「ユイカずっとこの高校行きたかったんだ‼だって制服かわいいから‼」
従妹はどうやら制服で進路を選んだらしい。
「うらやましいでしょ!…あれぇ、ミハルはドコの高校行くんだっけ?」
従妹は憎たらしい表情を浮かべて私に質問する。
「分かってるでしょ…。」
「あっそっかぁ。ミハルは高校受けてないんだっけ!ゴメンゴメン‼」
そう言いながら従妹はゲラゲラ笑った。
「まぁ、でも仕方ないよね!ミハルのお父さん蒸発しちゃったし、うちはユイカの学費だけでいっぱいいっぱいだし‼」
我慢してきたが、従妹の嘲笑に耐えきれなくなり、目から涙がこぼれそうになる。
「ただいま!」
叔父が突然部屋に入ってきた。
「おっ!ユイカぁ、制服かわいいね‼」
叔父はそういって従妹の頭を撫でる。
「えへへ…ありがとぉパパ‼」
叔父は従妹を甘やかし終えると、私の方を向いて言った。
「それから美晴ちゃん、いい知らせだ!」
「えっ!」
いい知らせ。もしかして父が見つかったのだろうか…⁉
「仕事が見つかったよ‼」
「えっ…。」
「高校に行けないのは仕方ないけれど、だからってずっと家にこもってちゃいけないからね。
知り合いに頼んで美晴ちゃんにちょうどいい仕事をさがしてもらったんだ‼」
「で…でも…。」
「大丈夫だよ!住み込みで給料も悪くない。
仕事はちょっときついかもしれないけど、立派に自立してお父さんを安心させてあげないと‼」
叔父は勝手に私の進路を決めてしまったらしい。
「……っ」
一度止まった涙が再びあふれてくる。
「よかったじゃんミハル‼ユイカよりもひとあし先に社会人だね‼」
従妹は笑ってそう言いながら私に抱き着いてくる。私は思わず従妹を突き飛ばした。
呆然とする叔父と従妹をよそに、私の身体はとうとう崩れ落ち、声を上げて泣いた。
少しの間の後、従妹が肩を怒らせて近づいてきた。
「何?そんなに嫌なの?」
従妹が冷たい声で聞いてきた。だが、頭の中がグチャグチャで従妹の質問に答えられない。
すると、従妹は私の顔を強くつかんで無理やり上を向かせた。
従妹は鬼のような形相で私を睨む
「パパがアンタのためにわざわざ仕事もらってきたんだよ⁉ちょっとワガママすぎない⁉」
私はそんなに我儘なのだろうか。
「…ぅ…ぁぁ…。」
何とか従妹に言い返そうとしたが、言葉が上手く出ない。
「何?その目…。」
従妹は私の表情が気に食わないらしい。
「バカにしてんの…⁉」
従妹はそう言って、頬のあたりにあてていた手を下にずらす形で首に手をかけ強く力を入れた。
それから間もなく、私の意識は途切れた。